「自分を見る」というのはボクたちペンギンにも最初はけっこう難しい。
だからきっと人間にはもっと難しいんじゃないかと思うよ。
自分って自分の中にある感じでしょ?
だから「自分を見る」のは、ちょうど着ぐるみに入って着ぐるみを内側から見るみたいなもの。
そりゃなかなか見えないよね。
難しいっていうより、「コツがいる」って言った方が当たってるかもしれない。
要は気付くかどうかなんだ。
厳しい修行の先に見つかるというものでもないし、
たくさん本を読んだからわかるっていうものでもない。
エレノワならこう言うよ。
「自分を書き出す、もれなく」
それから、こんなことも。
「自分を作っているのは何?」
え?
ごめんなさい、ボク「書く」って苦手かも。
とりあえず片っ端から思い出してコトバにしていく。
ちょっと目を細めて上から眺めてみる(つもりになる)けど、なんだかゴチャゴチャ。
エレノワ定番、
「外に出て雲と遊ぶ」
うん、なんかボクが小さい雲から大きな雲にジャンプしながら強くなっていくのが見える。
ここで「わかった!」っていう人は、もう、ここからあとは読まなくてけっこう。
でも、見てるボクと見られてるボクって何? ってボクは思っちゃうわけ。
どこがさかいめなの?
長老登場。
「ぴさふわ!」
静かなところで息を整えて、いつもと同じようにすーはーすーはー。
うん、とりあえず生きてはいるみたい。
カラダが動くか確かめていく。
首を回して、フリッパーをぱたぱたさせて、屈伸運動をして(意外でしょうけど、できるんです!)、
目をぱちくりして、ペタペタと足踏みして、石ころをクチバシでつついて、風の温度を感じて、
海の匂いをかいで、昨日たべたイカの味を思い出して…
うん、自分、いる。
カラダ、動かせる。
次は軽く目を閉じて、今のをを一つずつぴぴっと思い出して、さっと感じたら、ふわっと流す。
ぴっ、さっ、ふわ〜
ぴさふわ、ぴさふわ、ぴさふわ…
ちょっと眠くなると、いろんなことを思い出したり、誰かが耳元で何か言ったりするのが聞こえてくるけど、これも、ぴっ、さっ、ふわ〜
なんか体が熱くなってくる感じ。
こんどは、さっき思い出したカラダのあちこちを、ただその場所だけを心の目で順番に見ていく。
ぱっ、ぱっと切り替えて、できるだけハッキリと見たら、何も考えないでささっと次にいく。
最後はもう、ぱぱぱぱっと、ぐるぐる回る感じ。
次は、さっき心の目で見たカラダの場所を、自分の外側から心の目でながめてみる。
ボクのカラダが目の前に見えてるから、そのカラダのあちこちを順に見ていくんだよね。
見る側の目をジブンの前、後ろ、横、と動かしてみる。
「雲と遊ぶ」で見えた自分を重ねてみてもいいかもね。
さて、
自分のカタダってどんなふうに見えるかな。
ボクにはただの管(クダ)に見えたよ。
多少、モノを考えたりするから「ちょっと気が利いたクダ」くらい。
人間もキホンは同じだよね。
食べて、栄養を吸収したら、あとは出す。
食べ物が通り抜けるクダ、でしょ?
人間の言葉で言えば、カラダには
肉体・生理状態・感情・言葉
が詰まっているんだそうだ。
でも、ぶよぶよした皮で外と隔てられたクダであることにはかわりない。
これが全部、実は自分で自由にあやつることができる、っていう感覚が最初に言った「コツ」っていうわけ。
人間にとって、このうちで「感情」「言葉」っていうやつが、なかなか思い通りにならないから、やっかいなんだね、きっと。
でも、こんなふうにしてみたらどうだろう。
感情は後づけでやってくるもの。
「くるぞ」って思ったら、実際に来る前に、例えばちょっとした楽しみを感じちゃう。
かわいいあの子の素敵な鳴き声を思い出す、とかね。
別になんでもかまわないんだ。右足をペタペタと三回タップする、でもいいし、
小さな氷の粒をクチバシでくわえるでも、もうホントなんでも。
そっちに気をとられたらしめたもの、もうさっきのいやな感情はどこかに消えてしまっている。
ただし、「すぐに」がかんじん。
「くるぞ」からひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、って数えるくらいのうちに、これをやっちゃう。
もう一つの難関は「コトバ」っていうやつだね。
長老いわく、
「言葉はコトの葉っぱ、コトそのものにあらず」
人間はこれをいろいろと便利に使うけれど、ボクから見ればまるで「コトバの奴隷」みたい。
いちど言葉で物語を作っちゃうと、その意味を後から変えたり、別の見立てをしたりが自由にできなくなるっていうクセが人間にはあるよね。言葉ってしょせん、コトの葉っぱでしょ?
その奥にあるコトそのものとは別なのに、一度葉っぱをペタっと貼り付けると、もうそのまんま。
別の葉っぱをつけちゃいけない決まりがあるみたい。
葉っぱはコトからはがして、風にふわふわと飛ばしちゃえ。
さて、最初の出発点から見たらずいぶん遠いところまで来たように思う?
そう、もう十分高く登ってきたよね。
ここまでで「なーるほど!」ってなった人は、もう、ここからあとは読まなくてけっこう。
でも、好奇心のカタマリのボクはここで、つい勢い余ってエレノワの忠告に耳をかさず、さらに突進しちゃいました。ここから先はちょっと危険領域かもしれないので読む人はくれぐれもご注意を。氷の上を全速力で走っていたら、ズボっとクレバスにはまっちゃったみたいな感じで、壊れそうになっちゃうかもしれませんので、どうぞゆっくり、無理せずに、ね。
「自分がクダ」ってわかったら、やっぱり次は「そういうふうに自分を見ている自分って何?」って思うよね?
え、そんなの考えたら無限ループじゃん、って思ったそこのあなた!
たしかにそうかも。
「不思議体験しました」系ちゃうん? や 「宇宙とつながりましょう」系 とか、
「パワーグッズあります! 注:個人の体験です」系 とか、そんなのじゃないのかっていう人もいるよね?
それはそれで「そうだ、それだ!」って思えて、効き目もあればOKだと思うよ。
否定はしません。
でもボクの体験はだいぶ違うものだったよ。
長老の言葉。
「形が変わらないものはない」
「自分は形あるものではない」
えっ? じゃぁ自分は無いの?
「ないというわけではないが、あるわけでもない」
じゃ何なの?
「なにでもない」
うっひょーーーっ、これは超難問。
いや、待てよ。
形がないということは、流れみたいなものなのか?
動きとか働きと言ってもいいよね?
ボ:「長老メントールよ、それは流れですか?」
長:「そうでもあるが、そうではない」
ボ:「どこが、そうではないのでしょうか?」
長:「流れていることに違いないが、ひとつながりのものではない」
ボ:「今のボクと昨日のボクはつながっていないんですか?」
長:「ひとつにつながってはいないが、関係がないわけではない」
ボ:「どう関係があるのですか?」
長:「原因と結果という関係がある」
ボ:「そういうことなんですか?」
長:「そういうことじゃ」
ボクはこの言葉の意味がわかった瞬間をハッキリ覚えている。
それはちょうど、全く突然クレバスにはまったような感覚で、10分間くらい息もできないほど苦しくて、その次に目の前がパァーっと開けて、山の頂に立ったような気持ちになった。
その時、雲とお話をした時に「ちらっ」と見えたボクの姿がはっきりと外側から見えた。
見えたボクはもう着ぐるみを着ていなかったね。
正直、クレバスにはまった時にはもう壊れるかと思った。後でエレノワに言ったら「だからゆっくり進んでね、って言ったでしょう」と言われたけれど、時すでに遅し。まぁ、好奇心にはくれぐれもご注意っていうことです。
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